2009リサイタル案内状
 バッハはこの曲で単線的な音楽に挑戦した訳ですが、逆に、バッハらしい重層的でリズミカルな音楽に立ち戻って、本来の発想の原点にある音楽の喜びを表現したいと思っています。


2010年 演奏会の後Kさんに
 シャコンヌに関しては、私は、ギターでもヴァイオンでも、この曲のリズミカルな演奏に一度も出会ったことが無いのですが、音楽愛好家として誰でもこの曲を正しいリズム感で聴く権利があるのではないかという思いがあります。芸術家には自由に表現する義務と権利があるとは言っても、この曲のリズムの崩し方は自由な意識に基づいているというよりは、長年の因習によるものではないでしょうか。
 しかも、そこが眼目なのですが、この曲のしつこいほどのリズムの反復は、それを強調してこそ生きるのではないかと思います。が、実際に演奏してみるとそれがとても難しいのです。遅いテンポで4小節という長いリズムのリズム感を演出するのは容易ではありません。しかし、少なくとも音楽家は「読譜」という行為の中でそのリズムを想像できるはずです。
 そうして私の想像ではこの曲の反復には、ぐいぐいと人を引っ張り込んでいく力があると思っています
 そして、世に言われる名演奏家という人にはそれが出来るはずだと思います。残念ながら名演奏家の人たちも因習にとらわれていて、リズムに着目する前段階にあります。
 私の今年の演奏は案外うまくいったのですが、「心地よい演奏だな」と思ってくれる人はいても、ぐいぐいとリズムに人を弾きこんでいくようなことは出来ませんでした。実際にやってみても、従来の演奏とのそれほどの差はつかなかったようにも思います。
 私の理想では、4小節を1拍とか、1小節などと同等のリズム単位として弾けたらいいのになと思って臨んでいたのですが、中々そういう風には捉えることが出来ませんでした。


Oさんへ
  去年の演奏では、「シャコンヌ」の従来の演奏で、ギタリストは勿論、ヴァイオリニスト、ピアニスト、オーケストラなどすべてに憤懣やるかたない気持ちを持っていたので、本物の舞曲としてのシャコンヌのお手本を示したいと思って取り組んだのですが、結果は散々でした。ただ、新しい方向性は示せたものと思います。周期性の幻惑効果、残響の効果、リズムの効果、雑然と解釈されたものをもっと明確化したり、色々な工夫をしました。奇を衒うことなく、むしろ誰もが自分の個性的演奏を主張するために見せ付け合って来た衒いを削ぎ落とし、「誰がやってもそうなるに決まっているだろう」ということをやりたかったのです。


Sさんへ
  シャコンヌのリズムの周期的な反復の感じをどうしても一度は体感してみたいと思っています。ただし問題は、演奏しているとその周期性の感じが分からなくなってしまうことです。そこで、4小節サイクルの頭と各小節の1拍目が混乱無く覚えられるように、自分の練習用に一覧表を作成中です。
  その途中でいろんなことが見えつつあります。
  まずテーマは8小節なので、全体は8小節ごとの変奏曲としてまとめられるかと期待していたのですが、これは決してそんなことは無いようです。8小節ヴァリエーション説が完璧に覆される論拠は、ニ長調に転ずるところが8小節では割り切れない場所だからです。
  けれども4小節のペアは至る所に見られるので、大体8小節を大きくヴァリエーションとしてとらえるのは音楽の把握の方法として悪くはなさそうです。そこで、

   サイクル    :4小節
   ヴァリエーション:大体8小節

という風に考えて(もちろんリズム感覚としても)とらえようと思います。
  ただし、もっぱら私が把握したいのは4小節の反復感覚のほうです。このサイクルをフレーズとして捕らえると、フレーズのはじめは、テーマ以外はほとんど1拍目から始まっているらしいことが分かってきました。けれども、露骨にフレーズの開始を1拍目として開き直っているわけではなく、8分音符以上の長い音符のサイクルでは、2拍目にも十分フレーズを開始する力が与えられているように思います。つまり、2拍目でトニックに解決するような仕草が随所にみられます。仕草というのは、1拍目もほとんどトニックなのですが、2拍目のほうが本当に安定感のあるトニックだったりするからです。
  私がなんとか明瞭にしたいのは、たったの2つのことだけです
       ・各小節の1拍目に、やや強引にアクセントを置いてみること。
       ・各サイクルの、第2拍目を明示すること。
  余裕があればしてみたいのは、
       ・各サイクルをだいたい2小節半クレッシェンド、1小節半をデクレッシェンドで弾いてみること。
  普通に考えれば当たり前のような気がしますが、だれもがそれを超えていきなり表現世界に入ってしまうので、もう少し別の面が聴こえてきたらいいなと思っています。
  私は、わき目も振らず繰り返してくるものに集中し、聴く人はそこから、リズムが微妙にずれていく様に、至る所で気が付く。こんなことが理想です。
  もちろん宗教音楽家バッハの面目躍如たる精神世界を、器楽の世界に持ち込んだようなところが、古来、音楽家と音楽愛好家の心を引き付けて止まない音楽だと思いますが、今は別のところに集中したいと思っています。


Tさんへ
20年来の懸案だった私のシャコンヌ解釈版のような運指が出来たので、なんとなく嬉しくてお送りします。といっても色々細かく一音一音を検討したりしてはいません。原版は昔の現代ギター特集号の小山勝編のギター譜です。ブゾーニのピアノ版やセゴヴィア版のように、色々なものを付加し過ぎず、S版のようにギターとしては音が少なすぎて禁欲的だったりもせず、節度のあるいい版だと思います。

近年の私の好みの響きにしたがった運指なので、それほどの苦労もなく作れましたが、これからの練習が大変です。ドレミファがギターの順番通りに並んでいないので、余ほどの回数弾かないと身に付きそうにありません。

少し理屈っぽい面での工夫は、4小節ごとの変奏の頭にE絃解放絃のD音を入れました。けれども、そういうクドさを緩和するためと、その音を意味在らしめるためにも、E絃解放絃のD音は、それ以外の途中では使わないようにしてみました。

けれども、それは今回急に思いついただけのことで、私が前から思っていたことは4小節ごとの息の長いリズムが与える幻惑し、酩酊させるような感覚を崩したくなかったので、従来のヴァイオニスト、ギタリスト、ピアニスト、オーケストラの、リズムをぐちゃぐちゃにした演奏に憤懣やるかたのない思いを抱いていたことです。

また、フルーティストの「無伴奏フルート・ソナタ」、チェリストの「無伴奏パルティータ」にも不満です。ただし、チェリストの中の少数の人はリズムを美しく表現している様にも思いますが、フルーティストが一人の例外もなくフレーズの頭の音をソステヌートで吹くのにためらいを感じないでいることには、何か異様な現象としか感じられません。そういうことにためらいを感じないのはギタリストだけの専売特許ではないという思いの作今です。

4小節ごとのD音にはガムランの低音ゴングや、インドの息の長いリズムからの連想もあります。が、そのD音のことよりもルネサンス時代のポリフォニー作家と違って、バロック時代のポリフォニー作家の旋律に最初から前提として含まれている響きの豊かさを生かしてやれば、そんなに線状の旋律リズムをいじらなくても、不満なく演奏できるだろうという思いがあります。

「思い」といえば、このシャコンヌという曲には遠い昔から器楽奏者達は「マタイ受難曲」の作者の深い精神性の表れを感じていたことと思います。妙に現代的に覚醒した音楽家と違って、ご存知の通り、良きに付け悪しきに付け、私にはそんな思いが人一倍強く、決して精神的なものを力強く歌い上げることに反対する者ではありません。今回の編曲や、これから練習していく演奏のコンセプトは客観性を重視し、一見それとは矛盾するように思われます。しかし、作曲者の精神性が高ければ高いほど、深ければ深いほど、演奏者が力みかえって情念を直接ぶつけるのではなく、その作品が本来有るべき姿にあるようにしてやれば、自ずから作品が全てを語ってくれるはずです。バッハとはそういう作曲家です。

仮にベートーヴェンの音楽を演奏するのに奏者が渾身の力で激しい表現をしなければならない場合があったとしても、それは作曲者の命ずるがままにそうなるのであって、自分の思惑でそうするのではないはずです。大作曲家とはそのような者で、それに感応する有能な演奏家は、自己表現するのではなく、その人が感応した作曲家を表現するとき、それでも演奏家の個性が否応なく表出されるのだと思います。

音楽家の多くは「歌う」ということを全く勘違いし、「歌う」ということはテンポルバートで演奏することと同義に捉えているようです。私にとって「歌う」とは、文章の主語・述語や副詞句の関係が明晰にとらえられるように語るのと同じ様に、1節のメロディーがメロディーとして明晰に表現されることです。そうすれば一流と言われる作曲家のメロディーは美しく歌の表現を持っているのです。私が演奏したいのは三流作曲家の音楽ではないのです。

 back         topへ