ギターの上達のために

技術的に一番大切なこと


   左手:押弦は常にフレット付近(指がフレットに触れている)を、指を立てて押さえること。
   右手:指先を深く弦に触れて、力強く弾くこと。(楽器をよく響かせる)

 このことは、いくら強調しても足りないくらいです。しかし、中々理解してもらえず、手を変え品を変え、説明の言葉を何百・何千通りの表現を使い、
身振り手振り、顔色・声色を使って、伝えなければならないことです。

技術的大原則

  同じ効果を出すのに、最小の力を用いること。(無駄な力を入れない)

  これは、ギターに限らず、あらゆる楽器、スポーツなどにも共通することだと思います。上記の「左手の押弦は常にフレット付近、指を立てて押さえること
という基本もこの大原則から演繹されることです。
 
大きな音で練習してください

 ギターを学び始めた人は必ず大きな音で練習するように心掛けてください。
 その、表向きの理由は、楽器の練習は、楽器をよく鳴らす練習でもあるからです。楽器をフルに鳴らすことによって初めてその楽器の本当の音、美しい音、色々な
 表情の音が解るのです。楽器を100パーセント(以上)の音で鳴らせない人には、その楽器を永遠に理解することはできません。これはギターに限ったことではありません。
 あらゆる楽器、そして歌にも当てはまることです。
 
 さて、私には、ギター教師の本音の理由と言うものがあります。音をまともに出さない人は、常に、色々なことをごまかしているのです。ちゃんと音を出してさえ
いれば、その人は自分で自分の間違えに気が付き、その大部分を自分で直し、ひとりでに上達していけるのです。学習中の人はしばしば「大きな音を出すと音が汚くなるから
出したくない」と言います。思うにその人は小さな音でも汚い音を出しているのです。これは、当人もある程度自覚しているごまかしの第1番です。

 誤魔化し 第2番 : 音自体が鳴っていない。
                殆ど蚊の鳴くような音ばかりしか出さないことに慣れている人は、自分が実際に音を鳴らしたのかどうかさえ分からないのです。
                ギターは、きちんと押弦していなかったら音は出ないのです。きちんと撥弦し、音を出すことに親しんでください。

 誤魔化し 第3番 : 音が違う (ドレミの違う音を弾いている)
                色々なことを間違えるのはいいのです。そして盛大に間違って、それが、知っている歌のメロディーだったら自分で直せることでしょう。知らない曲
                だったら、教師の助けを必要としますが、間違えをごまかすような弾き方をしていなければ、間違いに気が付くのも早いことでしょう。

 誤魔化し 第4番 : リズム   オリジナル教材「音価の数え方」参照
                リズムが取れない人は、リズムが違っても、音さえ合っていれば「私は間違っていない」と思うことが多いようです。教師が助けにならなければならな
                いのは当然としても、ある種の気迫のある音を自ら出さなければ、リズムのような動的な性質の事柄を身に付けることは、不可能だろうと思います。
                音符の音価について、よく理解する知的な人でも、実際に音価を数えるのはが苦手な人は、静止的にリズム理解しようとするからです。時間的長さ
                は、生身の人間が測る場合、私たちは物差しのような比較対照物を持って、図ることはできません。リズムという要素だけは、生きた人間の体内に
                刻まれた物差しに従うしかないのです。この物差しは、体から取り出して、図ろうとする音楽に押し当てて長さを図ったりすることの出来るしろものでは
                ないこと、お分かりですね。

                小さな音で一生懸命音楽を図ろうとしている人は、何となく時間の定規を取り出して、時間に当てて長さを図ろうとしている人の姿に似ています。
                ガリレオ・ガリレイが振り子の原理を発見したことは大したものですね。我々は、こうして時間と言うものを空間の中で一定の運動をする物体の
                位置で知ることが出来るようになったわけですが、ほんの少ししか揺れていない振り子を見て、時間が正確に測れますか? リズムを図るには、
                力強く大きく揺れる振り子が必要です。幸い、ガリレオの原理では振り子の周期は、振り子の長さだけに寄っていて、重りの重さにも、揺れの大きさ
                にも依らないのでしたね。


 楽譜は音楽を正確には記譜できないこと   
 
 世界中の音楽はほとんどすべて、伝承芸という形で師匠から弟子に伝えられたものでした。
 私たちにとって身近な例である、純邦楽などは、ほとんどが、弟子が師匠と対面して音曲の1節づつが教えられたり、住込みの内弟子が師匠の芸を盗み取るようにして身
に着けていくことが普通だったものと思われます。

 ところが、大概の音曲では、個々の芸能ごとに何らかの記譜法が作られていることも事実です。けれども、それらの譜面は素人衆が簡便に音曲を学ぶことができるように
作られたものです。そういう譜面は、それぞれの音曲特有の節回し、歌い方を予め知っている人が見て初めて、解読できるるようなもので、素人衆が自宅に持ち帰って、
師匠から教わったことを容易に思い出しながら復習できるような、記号で書かれています。

 恐らく、プロの音曲師の人たちは、そんな譜面など持たずに稽古することにプライドを持っていることと思います。それでこそ本物の音曲が伝えられるのです。

 ところが、西洋文化の中心だったキリスト教会が採用したネウマ譜という楽譜(その読み方には、おそらく伝承的要素がまだ色濃くあったと思います)から発展して近代の
音楽家たちが使うようになった5線譜は、個々の楽曲や、民族性とは無関係に、かなりの正確さをもって音楽を記譜できるものです。現代の、民族音楽を研究する音楽学者は、
フィールドワークに出かけるきは、録音機材を使って録音するのが普通ですが、5線で記譜することも今日でも有用な手段だろうと思います。
 5線による記譜法は、エジソンが蓄音機を発明する以前の音楽の、音楽の記録方法としても、高く評価するべきことです。これは、自然科学と同じ 「近代合理主義」の精神
が、音楽という人間活動の領域でも働いていることの一例です。


 平均律とか純正調とかあまり細かいことを言わずにおけば、地球上の大概の民族の音楽は1オクターヴを12半音に分割した音程のうちから7つ、もしくは5つを選んだような
音で音階が出来ているので、普通の音楽ならほとんど5線譜で記録できるのです。

 けれども、5線記譜法は万能ではありません。
 世界は広く、私たちの知っているのとは大分違う音楽もあります。
    有名な例では
        インドネシアのスレンドロ音階・・・1オクターヴをほぼ5等分するような音階、楽器や楽団の楽器セットによって微妙にピッチが違う
        タイの微分音階・・・個人的には4分の3音のような音程に、遠い音程から飛び込んでいくのがとても美しいと思います。
        ペルシャのシステマティックに構成された微分音階の体系
 これなどは、ある種の微分音をああらわす、 のような記号を、あらかじめ決めておけば対応できるかもしれませんが、西洋音楽の音律に耳がなれた音楽学者の人
には簡単なことではないようにも思います。
 小鳥の鳴き声を楽譜で書いてみろと言われると、まったくお手上げになってしまいます。それに似たことをした作曲家は、古来、山ほどいるのですが。みんな、人間の音楽
を作曲したので、鳥の歌声を記録したわけではありません。謡の強吟などは、謡曲を習っている人は謡本を見て何の問題く謡えるのに、楽譜ではお手上げの一例です。

     
 前置きが長くなってしまいました。
 5線譜で音楽を記述する方法で、中々うまく記譜できないことがあります。その一つは音価です。正確な音価を書こうと思えば、出来ないこともないのでしょうが、そのために
譜面が複雑になりすぎ、書き手の負担、印刷用紙の面積も大変なことになるでしょうが、何よりも楽譜の読み手でもある演奏者に却って真意が伝わりにくくなる恐れさえあるものと
思われます。
 例えば、次のような簡単なアルペジオの場合
       譜例1
 それぞれの16分音符の長さは、杓子定規に解釈すると、1/4拍づつなので、
        譜例2

 こんな風に弾くのかというと、そうではありません。ごく普通に考えれば、ドミソドの音はどれも、このアルペジオを弾いている間中、ずっと鳴り続けていなければならないはずです。
でも、それを正確に記譜しようとすると、4段譜で
        譜例3
 このようにでも書くしかないのではないかと思います。
 しかし、こんな書き方をするまでもなく譜例1のままで大概の音楽家の人ならば、よくわかることと思います。
  この例では、あまり必要もないと思いますが、和音の響きを持続させることを伝えるのに、タイ記号を本来の使い方とは別に援用して
        譜例4
 という書き方もニュアンスが伝わりやすい書き方だと思います。またピアノには大変便利なペダル記号というものがありますね。
        譜例5

 自分でギターを練習しているとき、それ以上に、人の演奏するギターを聴くとき、さらにそれ以上にギターをレッスンしているときに、いつも思うことがあります。
 「ギターはメロディ−を継続させることは難しいけれど、それ以上に、メロディーを下から支えるハーモニーを響かせておくことはもっと難しい」と。
 例を上げれば枚挙にいとまないのですが


   (2012・9・5書きかけ項目)



 1.アルペジオ

 2.就中、ギター譜での省略された記譜法


 2.予め演奏習慣に関する知識を必要とする記譜
    装飾音の弾きはじめのタイミング

 3.作曲家にも決定しがたい項目
    テンポ
    曲末のリタルダンド
    

オリジナル教材の「講習会テキスト」に掲載するために作ったのですが、よく出来たと思いますので、
ここにも転載しました。

 

ギターの難しさ

  ギターの難しさは、楽器を操作するために必要な情報の処理量が多いことです。ギターの音の並び方は分りにくく、しかも1つの音は平均で3つか4つのの場所で出せる
ので、どの弦を選ぶかを常に検討しなくてはなりません。
  例えば、一つの音を出すのに4つの弦で出すことが可能で、それを押さえるための左手の指を4本から1本選び、それを弾く右手指も4本から1本を選び、という単純な
選択でも
       4×4×4=64通り の中から最も適した一通りの方法を選択しなければなりません。
そんな音を2音続ける場合は、
       64×64=4096通り になります。しかし、最初の音が選択された後、次に来る音の出し方の可能性はかなり制限されるのではないかと反論されるかも知れ
ませんが、最善の弾き方を選ぶためには、すべての可能性を捨てることなく、検討してみる方がより良い結果をもたらすものです。

                                                            理屈っぽくはったりを利かせた薀蓄を傾けたい人のために
練習の意味 
  練習によって私たちは、多くの情報処理を必要とする多様な事象を、多様な事象としてではなく、単純な一つの事象として体で覚えるのです。

  その方法は、単純で、スポーツ選手の練習方法と何の違いもありません。ある動作が適切であるかどうかを検討しながら何度でも、反復するのです。それが適切であるかの
  基準は、スポーツならば、ボールが遠くまで飛ぶ、速く走れる、3回転ジャンプが美しく出来る等々ですが、音楽では、音楽が美的に表現できるかどうかです。
  勿論、同じ動作をするための肉体の力の使い方は、最小であるべきです。そのための練習量は恐らく、強引な方法で目的を達成するよりははるかに多い練習量が必要です。
更新11月11日

半音階練習の方法に、言いたきことあり
 
 「オリジナル教材」の「スピードトレーニング」に半音階の一つが載っています。
   

 これだけでなくて、一般に半音階の練習は、ギターの左右の指の基礎練習として重要ですね。
   

 半音階のトレーニングは、指の動きのトレーニングとしては、ギターにとって最重要な練習だと思いますが、この方法につき、どうしようもない
 迷信がまかり通っています。曰く、「左手の指は、1・2・3・4の指を4本とも全部押さえた後、次のポジションに進むこと」と。この迷信はまかり通っているなどと言
うような生易しいものではありません。私は、個人的には、これ以外の方法で半音階練習をしている人は、私の生徒たち以外に会ったことが無いのです。

 ところで、「1・2・3・4」の指で、同一の弦を全部押さえておくというのは、音を出すのに全く不必要なフレットを押さえていることになります。ファを1指で押弦し、同時にファ#を
2指で押さえても、1指の押弦は、全く意味がありませんね。また、ギターの学習者にとっては難しい「指を開く」ために余計な力を使うということにもなります。

 私は、「指は一つ一つ離しなさい」とは教えていませんが、結果的にはそうなるということです。正しい半音階の押弦法とは

  1.1指を押弦するとき、1指以外の力が入らないように、指、腕全体、肘、手首の関係が絶妙にバランスが取れるように押弦出来ていること。そういうバランスが取れるように
    未熟練な人は、腕や手首を色々動かしてみて、腕、手、指の最善の位置関係を探し(手の色々な筋肉の緊張を感じ)、その位置関係(緊張の最も少ない状態)を、
    目でもよく観察して覚えておくこと。
  2.2指を押弦するとき、2指以外の力が入らないように、指、腕全体、肘、手首の関係が絶妙にバランスが取れるように押弦出来ていること。以下同様。
  3.3指を押弦するとき、3指以外の力が入らないように、指、腕全体、肘、手首の関係が絶妙にバランスが取れるように押弦出来ていること。以下同様。
  4.4指を押弦するとき、4指以外の力が入らないように、指、腕全体、肘、手首の関係が絶妙にバランスが取れるように押弦出来ていること。以下同様。

 そうして、常に前の押弦状態が、次の押弦状態に、一切、影響を及ぼさないようにすること。つまり、
  2.2指を押さえるとき、2指に、1指の力が及ばないようにすること。
  3.3指を押さえるとき、3指に、2指の力が及ばないようにすること。
  4.4指を押さえるとき、4指に、3指の力が及ばないようにすること。

 総じて押弦の感じとしては
  1.1指の押弦は、やや1指の方に傾いていること。
  2.2指の押弦は、指板に対してほぼ垂直であること。
  3.3指の押弦は、指板に対してほぼ垂直であること。
  4.4指の押弦は、やや4指の方に傾いていること。

 それぞれ、フレットの間際を押さえなければならないことは言うまでもありません。指の片端はフレットに触れています。

 口を酸っぱくして指導しても中々治らないのは、
  2.2指の押弦しているとき、2指が1指の方に傾いてしまうこと。
  3.3指の押弦しているとき、3指が2指の方に傾いてしまうこと。つまり1指の方に傾いてしまうこと。
  4.4指の押弦しているとき、4指が3指の方に傾いてしまうこと。つまり1指の方に傾いてしまうこと。
 です。
 残念ながら、この段階を中々乗り越えられない人が多いのは、手・腕の脱力、柔らかさが不十分なためと思われます。

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リズムの基本  拍子感覚


 楽譜には必ず、4/4拍子、3/4拍子など拍子が明記され、またその通り、1小節が4拍なり3拍できちんと書かれています。
 これはダテではないのです。でも、人の演奏を聴くと、8分音符、16分音符、付点4分音符など音符の音価は弾けていても、拍子が感じられず、拍子のメリハリの無い
ベッタリした演奏にしょっちゅう出会います。拍子に関しては多分、日本人ならだれでも小学校の授業で教わることと思います。それによると、

  2拍子は  強 弱
  3拍子は  強 弱 弱
  4拍子は  強 弱 中 弱

 という図式的表現で説明されます。私も基本的にはそれでいいと思います。しかし、こういわれた事を文字通りするとなると、学習者は、強拍のところで妙なアクセントで
弾いてしまいます。実際、そんな音楽は有り得ないのです。

 もっと拍子の感覚は内面化されたものにしなければなりません。
 そもそも拍子とはなんでしょうか。私は、

     「拍子とは音楽を動的(ダイナミック)に推進するために、西洋音楽のなかに組み込まれたシステムの一つ」

 と考えます。西洋音楽のなかに「音楽を力学的に推進するためのシステム」は、他にもあって、一番有名でよく知られたものは「機能的に導入された和声」ではないかと
思いますが、西洋古典音楽では、メロディーなども機能的に扱われていると考えるのが普通だと思います。(「メロディーの機能的扱い」
 
 確かに「強弱中弱」の図式で表されるリズムは同形反復の効果による予測によって音楽を推進する力があります。
     ■□□□■□□□■□□□■□□□■□□□■□□□
 20世紀の最後の30年に発達した、コンピューター音楽を中心とする強烈なアクセントのビートによる音楽は、否応なく私たちにリズムを強要してきます。
     ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 

しかし、私の感じているリズムはそういうものでもありません。拍子の拍節とは、「強弱中弱」のように分節されたパターンでなく、連続的な音のグラデーション
反復するデクレシェンドのことと思います。
     
これが力学的(ダイナミック)だという理由は、「水が高きから低きに流れる」ように音が1拍目の位置エネルギーの高いところから、4拍目のエネルギーの低いところに
流れていくからです。
 実際の楽曲では、この弱いデクレッシェンドのグラデーションに、それをほとんど打ち消すような強烈なクレッシェンドが重ねあわされることもあるということです。

ギター と 楽譜―――瞬発的な音の発現 と 離散的システムによる音楽の表記法

  同じ有棹弦楽器(ゆうかんげんがっき=ネックの有る弦楽器=ハープではない弦楽器)でもヴァイオリンは擦弦楽器、ギターは撥弦楽器です。ヴァイオリンを弾く人は弓を
動かすことを止めると音が止まってしまうので、音の持続に関しては否応なく意識を持ち続けることが出来るわけです。それに対してギターを弾く人は、弾弦する瞬間には神経
を集中するのですが、音が立ち上がったのち、の残響に対しては、音としての存在感が弱い所為か、神経を使わない傾向があるようです。そのため、ギタリストは旋律を歌うこと、
あるいはそもそもギター曲の中で何が。旋律なのかまったく気も付かない状態で楽器を演奏していることも少なくありません。これは他人ごとではなく、私自身、練習の最中、
どれがメロディーだか分らずに弾いていることが少なくありません。その上ギタリストにとって仕事はメロディーを弾くだけではなく、普通は伴奏も一緒に弾かなくてはなりません。
ところがギター音楽は、、左右の手を使い分けることのできるピアノとちがって、メロディーと伴奏の両方を右手一本で処理しなければならないのです。次々に交代していく和音を
弾き続けているうちに、ギターを弾く人は、その中にメロディ−が息づいていることをすっかり忘れていしまううのです。それが極端になると、ギター弾きにとってメロディーは変化して
伴奏音と本来の旋律が一緒に混じりあい、あのギター独特の新メロディーを作り出してしまうのです。その類の新メロディーを,自分の解釈上の創意工夫だと勘違いしているに人
には、私は何とも言うべき言葉がありません。

  更に不利なことに、我々の音楽文化にとって切っても切り離せない五線譜による記譜法が追い打ちをかけます。五線譜の音符は、4分音符は1拍、2分音符は2拍という具合に
音の持続時間を表すものですが、実際の音符図形では、4分音符も、2分音符も1つの点ようなイメージの符頭で表されるだけです。ギターを弾く人はこれを感覚的に「音を弾く
タイミングを表すもの」として捉えている人が少なからずいるように思われます。勿論、頭では、それが持続を表すものと理解しているのですが、感覚の方がそれに慣れていない
のです。
  音楽の音とは基本的には音の持続であって、点ではないこと。そのことを、常に思い浮かべて、ギターを練習していただきたいと思います。
  私にとってリズムとは点によって表現されるものではなく、線でさえもなく、上の欄で示したのような面が相応しいと思います。メロディーとは面積
を持った平面と平面が色調を変化させながら相接して出来上がる構成物。こんなイメージを持っています。

 その意味でも、モンドリアンはよく音楽のリズムの本質を捉えていた画家ではないかと思います。空間を心地よい面で分割したような絵画はどれもリズミカルな喜びにあふれて
います。

      

タッチ―ーその1 : 弾こうと思って指を動かし始めるときと実際に音が鳴るときのタイミングのずれ

タッチ―ーその2 : 考え方

 撥弦楽器の発生については、狩猟民族が弓の弦をぶんぶん鳴らしたことが起源だという説が有力なようです。製菓メーカーの森永の天使がハープに矢をつがえている姿が、
私たちには馴染深いですね。昔、岩波文庫で、古語辞典を片手に読んだ「源氏物語」の「葵上」の巻のなかでも物の怪(実は六条御息所)退散のために検非違使か何かが、弓
を鳴らしている場面があったことも思い出します。(楽器関係でいえば、「紅葉の賀」の巻だったと思いますが、笛で垣根を作って、その中で、源氏と頭中将が青海波かなにかを舞う場面もきれいですね。ちなみに私の住む
狭山入曽では入曽の獅子舞という県の無形文化財があるのですが、そこでも笛を吹く人たちが垣根を作って中で獅子舞を舞っているところを見たことがあります。とても感動しました。話が脱線しました。)


 弓は威力を増すために出来るだけ強く弾いた方が好いと思います。そして、ギターもよく楽器を鳴らすためには強く弾かなければなりません。強く弾くためには強く弦を引きます。
 というより、ギターの弦を弾くのは、引くというよりは押すというイメージです。その弦を、一番深いところまで押し切った位置から解き放つわけです。弓の場合ならば、引ききった
弦を摘まんでいた指を巧みな技術で放すと矢は飛んでいくのでしょう。ギターの場合弦を押している1本の指を、押し切った位置で解き放すのですが、そのやり方が大変に難しい。
 弾弦を完了させるには、弦を押した指を更に押し切って、弦を跨ぎ超すようにして、弦を解き放ってあげなければなりません。ところが、未熟練者の人は、折角弦を力を入れて
押し込んでも、その弦を指先の摩擦面をずるずると擦らすらせるようにして解き放つのです。これでは折角、引き絞った弓の弦(つよ引き)を一度、緩んだ状態(よわ引き)にして
放つようなものです。
 だから未熟練者の人は、ギター教師の言葉に従い、力を入れて弦を押しはするのですが、それを見ている教師が、ずっこけるような、蚊の鳴くような音しか出せないのです。

         







つよ引き 

つよ弾き
つよ押し







よわ引き

よわ弾き
よわ押し
   
つよ弓・よわ弓 :  能の「屋島」では義経が、弓を流してしまい、危険を冒して拾いにゆき
 忠臣の兼房から諌められた時、「さればこの弓を敵(かたき)に取られて義経は小兵(こひょう)
なりと言われんは無念の次第なるべし」といっています。義経の弓は弱かったようです。

 「イリアスとオデュッセイア」に出てくるオデュッセウスはトロイ戦争の後、アフロディッティ女神
の怒りによって、地中海をさまよい、中々帰ってこれません。留守を預かる貞淑なペネロペイア
に周辺の領主たちが次々に求婚して来ますが、断り続けます。そして、断りきれなくなった
ペネロペイアはある課題を求婚者たちに突き付けます。「今度の、宴席で私の夫の弓を引ける
人の妻になりましょう」と。ところが、男たちの誰一人、その強い弓を引けません。丁度、そのとき
オデュッセウスが帰ってきてその弓矢で、男たちをやっつけるというお話です。「イリアス」では
どちらかといえば知将としてしられる人ですが、武勇の方もなかなかだったのですね。

 ところで私はオデュッセウスの弓のように、誰にも弾けないような強いギターを使って思いきり強い
音でが弾いてみたいと思っています。ちなみに、私のギターは、そんなに強いわけではありませんが
子供のころから、偶然ではありますが、4本ほどずっと弦長660mmを使って来ました。
今年のリサイタル(2011年)は、幸運にめぐまれて入手できた1985年生ラミレス・カマーラという
楽器を使いますが、これは弦長が664mmです。しかし、そんなに弾きにくい感じはしません。
 それから私は、思いきり弾きたいので弦高も高い方が好きです。

アマチュアの人に多いのですが、しばしば「ギターを強く弾くとノイズが出て音が汚くなるので、強く弾きたくない」といいます。しかし、そういっている人は元々ノイズの問題を処理
できていないのですから、その音は汚いのです。それどころか、何度も聴いてきましたが、そういう人の音は「薄汚い」という誠に好ましからざる音なのです。
              

タッチ―ーその3 : 爪 ギタリストにとっての爪の持つ意味

  ギタリストが爪を成形し、磨き上げることは、ギターを弾かない人には余り知られていないことですが、ギターを弾く人なら誰でも、その難しさに辟易しています。オーボエ吹きの
人が常にリードを削り上げる苦労に直面していることは、音楽好きの人の間ではよく知られています。ギタリストもっと爪磨きが大変だということを一般社会に向けてアピールする
べきだと思います。

  ところで、「ギタリストは爪を使う」と知っている人も、その爪の役割について知っている人は皆無だと思います。恐らく「ギタリストは爪を使う」という意味は「ギターは爪で弾く」と
いう意味に受け止められていると思います。ギターは爪で弾くのではありません!!。少なくともギターの弦を押して、弦に力をかけるのは、指先の爪のない肉指頭の部分
です。爪に直接弦を乗せて、弦に力を加えるのは、ごく例外的に、ある趣のある、めったに使わないような音色を得るためですが、これでは、特殊な音色の弱音しかでません。
  ピックだったら、ピックで弦をひっかけて弦を弾いて弾くのですが。ギタリストの爪の使い方には、「爪を削って磨く」ことよりも、更に一層、デリケートで高度な技術が必要なの
です。その技術は、余りに難しいので、可能ならばここで文章で説明したいのですが、そんな事は完全に不可能に類する事柄です。習いたい人は、どうか私の教室に、少なくとも
10年通ってください。運が良ければ、学べるかもしれません。
  私は出し惜しみしてそれを教えないわけではなく、いつも一生懸命、教えさせていただいていますが、本当に難しいのです。

  ギターを長年弾いていて、きれいな音色が出せる人にも、実際ギタリストの爪の意味についてよく理解している人は少ないように思います。本当にきれいな音が出せる人は
原理的なものは知らなくてもいいのだろうと思いますが、私がおぼろげに理解する原理は、美しい音を出したと思って悪戦苦闘されている皆さんに、少しでもヒントになればと
思ってのことです。


爪の役割

  「タッチ―ーその2」で説明したように、弾弦するには、きりきりと弓の弦を引き絞るように、指頭で弦をいっぱいに押すのでしたね。そうして、最後にギタリストは、弦を指頭から
爪に載せ替えてやるのです。そうするとギターリトの爪は、引っかかるところがどこにも無く削ってあり、摩擦もないようにつるつるに磨いてあります。必然的に弦は、弦の反発力
だけでつるっと滑って、指を離れ、弾弦が完了するのです。


爪を磨く

  だから、爪で弦を弾こうと思っても弦はつるつる滑ってしまうだけで、弾弦などできないのです。―――というのは、少々大袈裟なお話ですが、しかし、爪を、そんな風に考えて、
色々なヤスリを使って、磨いてください。爪を削り、磨く道具は様々ですが、私の場合、3種類のサンドペーパーが基本です。茶色の木工用のではなく、黒っぽい金属なども磨ける
やすりで、ホームセンターや金物屋さんならどこでも手に入る、A4サイズの1枚120円くらいのサンドペーパーです。

  320番手 : 爪が伸びすぎた時に爪切りの代わりに使います。
  800番手 : 爪の成形に使います。
 1500番手 : 仕上げの磨きに使います(最近ではプラモデル用の1200番というペーパーも好んで使います)。


爪だけを使ってのタッチ

  実際には、爪だけでも音は出せるのですが、だいたい、次のような性質の音です。

    1. きんきんしてノイジーな音 : 普通はそんな音になり安いです。音楽上の要求から、そんな音が欲しい場合もありますが、通常は、この音は汚い音と言うべき音だと
      思います.。

    2 弱音で透明感あふれる、非常に美しい音。そんな音もあるのですが、この音はいつも使っていていい音ではありませんね。第一楽器が気持ちよく鳴ってくれるような音
      ではありません。ひそかなる愛のささやきのようなときに使う音ですので。

    3 爪だけでは、ありませんが、指頭と共に、爪にも多くの比重をかけて弾いた音は、音の立ち上がりが早い音になります。
      これにも、上の2種類があって、
        単に立ち上がりが速いだけで、ややノイジーな音。この音は私には比較的、使用頻度のある音です。
        輪郭のはっきりしたクリアーナ音。多分有名ギタリストの人の音はこの音が中心になっているように思います。私もこの音は良く使いますが、私の使う音の
        中心的役割を持った音という訳でもありません。
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フェルマータ、リタルダンド

 

ディナーミク、アゴーギグ、アーティキュレイション

ディナーミク

アゴーギグ

アーティキュレイション

グルーピング、フレージング、ブレシング



曲のアナリーゼについて
 

解放弦再考

  あまりよく知らないのですが、ヴァイオリンは、19世紀ごろからでしょうか、メロディーを弾くのにヴィブラートで弾くのが普通になったのではないでしょうか。それで、ヴァイオリニスト
は、多くの場合、解放弦を避けるようにしている気がします。(因みに、クラリネットは、作今、ノンヴィブラート奏法が全盛らしいのですが、私はそれはちょっと苦手です。)
  ところで、ギターの場合も19世紀のタルレガ辺りからでしょうか、メロディ−をA弦やB弦のハイポジションを使って弾くのが流行してきました。それは、ふくよかでロマンティックな
魅力を持った音ではあります。そうして、その音色はギタリストという存在のアイデンティティーとも結びつ言っているようにも思われます。しかし、それは、個人的な「好み」の域を
超えた何かなのでしょうか。

  私は、個人的には、解放弦や、ローポジションの音を好んで使うことにしています。私自身は、それを個人的嗜好とは別の次元で、行っているつもりなのですが、他人から見れば
そのように映るものなのかもしれません。
  まず、響き(音の持続)の点で、ハイポジションの音は不利です。
  また、単純にハイポジションは、技術的に難しいはずです。
     私は、必要になればE弦やD弦の12フレットから15フレットくらいの音も、人よりは、かなり頻繁に使っているのですが(多分、使わないギタリストは一生使わない音だと
     思います)、その音が、響きや音色の面で余り特異なものにならないように、押弦・弾弦にはかなり神経を使わなければならないのです。

     太い弦ほど、押弦の指を離弦したとき、つまり持続する音が消失する瞬間、ノイズが出やすいのです。また、ノイズが出ないように気を付けても、音がぷつんと消える瞬間
     が、ノイズと似たように目立ちすぎるのです。それを避けるためには、離弦するときに、急には放さず、少しづつ指を放して、振動する弦をフェードアウトするかのような
     ミュートをしてから離弦するという高等技術を用いますが、これは正に「離れわざ」のような、すごいテクニックですね。

  これから先は私の個人的好みですが、私は、多くの場合、ピアノのペダルを使うように、ギターの響きを出来るだけ残しておきたいのです。というのは、私には普通に弾いた
  ギターはどうしてもスタッカートに近く聴こえてしまうからです。楽譜にスタッカートの印が付いていても、よくよく考えてからでないと、敢てスタッカートしたいと思いません。
  ですので、普通にドレミファを弾く時も、リュート奏者のように譜例2のように弾くことも、日常的に行いたいことの一つです
            
   譜例1  譜例2
   

       でも、これは、私の生徒には強制しませんのでご安心ください。

ギターを弾きながらメロディーをメロディーとして弾くこととは

 ある難しい音楽書を読んでいたら、ほんの1行だけギターについて言及しているところがありました。ギターには両手の役割の違いがあり(右手がリズムを、左手が音高を担当)
そのために、ギターを主として弾く人には音楽的想像力において、ある種の歪みが生じるのだと。

タイトルのテーマを論じる前に
 メロディーをメロディーとして弾くこととは
     というテーマについて語りたい気がします。

その前に
 メロディーをメロディーとして聴くこととは
     という古来の有名な議論があります。これはゲシュタルト心理学という学問を提唱した人々が、彼らの学説を敷衍するための例題として、しつこいほど何度も何度も取り
     上げたテーマだった気がします。こういう、客観性を求める学者の人たちは、芸術について一家言持つことにもある種のステータスを感じるようではあります。

     それは兎も角、ゲシュタルト心理学者の人たちの言うことを、自分なりに理解してみると、メロディーというものは、一つ一つの音が時間方向に、並列的に並んだ音の
     集合などではなく、全体としてまとまった実体のようなものだということでしょうか。どうも、うろ覚えの知識なので、学問的に正確な言葉で言えなくて、申し訳ありません。

     要するに、メロディーとはばらばらの音の並びではなくて、音がまとまって全体としてなにか意味のあるものになっているというようなことでしょう。そうして、皆さんも思って
     いらっしゃると思いますが、そんなことは当たり前のことですね。音楽を日頃から楽しんでいる人は、メロディーが1個1個別々の音の並びだなんていう経験を楽しんだり
     しませんね。メロディーはあくまでもメロディーなので、私たちはそれをそのまま「春のうららの隅田川」と聴くのであって「ド」だとか「ミ」だとか、そんなことは知ったこと
     ではないのです

     でも、楽器を初めて習う人には、嫌と応となく、、メロディーというものを1個1個別々の音の並びとして捉えていくような経験をするのです。まして、ギターのように
     1つ1つの音を出すこと自体が難しい楽器に於いては、なお更そうなのです。

     すなわち「春のうららの隅田川」「ソーソドードレドシラソ」はおろか、「ソ」「ソ」「ド」「ド」「レ」「ド」「シ」「ラ」「ソ」と歌もリズムもない音の並びと化してしまうのです。
     勿論、音楽教師は誰だって生徒さんをそんなまま放置したりはしませんよ。

     けれども、自分から、気持ちを、その状態から変えることが出来ない人は、何年たってもメロディー一つ弾くのにも教師の助けがいることになるのです。ギターを始めた
     直後の難しさから、あまりに心が離れない人は、2・3か月たったらもう少しリラックスして、遠くからギターを眺めてもらいたいと思います。その間に習ったことはきっと
     身についていて、もっと音に対して自然な反応が出来るはずです。―――そうです、音一つ一つを「ソ」「ソ」「ド」「ド」と勘定するのはもう止めにしましょう。

ギターでメロディーを弾くこと
   昔は、「メロディーをメロディーとして弾く」ことに関して、ギターを弾く人たちが一番下手なのかと思っていましたが、楽器を演奏する人で、本当に「メロディーが メロディ−
  として聴こえる」ことに心を砕いて演奏している人は、余りに少ないように思います。「僕のメロディーを聴いてくれ」という訳で、「俺流のメロディー」を主張することには熱心
  なのですが。しかし、それでは、本当はそのメロディーがどうなっているのかということが解らないではありませんか。

  そうして、私の音楽上の関心事もそこにあります。メロディーには限らないことですが、私の音楽的関心事は「本当にその音楽はどんな音楽なのか」に尽きます。だからこそ
  私は、その音楽の真の姿さえはっきり表現できていれば、いや真の姿が明確であればこそ美しいに決まっている音楽しか演奏したくないのです。私が昨年と一昨年(2010
  2009)のリサイタルで2年間かけて、バッハのシャコンヌを取り上げた理由もそこにあります。私にはこの音楽の本質構造を明らかにしたような手ごたえのある演奏に出会
  ったことがないと感じられたからでした。

  美しいに決まっている音楽とは、信用するに値する作曲家の作品ということです。

    ところで、音楽家の中で誰もが俺流音楽ばかりやっているかと言うと、そうでもないと思います。指揮者の人は、音楽を演奏するとき、大概は、自分の理解し信じた通りに
  音楽を演奏するのだと思います。そういう客観性がないと、大勢の楽団員が付いて来ないだろうという実際問題もあることと思いますが、それ以上に指揮者の人の仕事
  の多くの部分が音楽を理解するということに費やされており、古来の傑作の楽譜を読み込めば読み込むほど、そこに自分自身の入り込む余地のないことを知るからなの
  だと思います。
    では、指揮者の演奏に個性がないかと言えば、全くその反対です。本当の個性と言うのは音楽のどこをどのように原曲と違った演奏をするかと言うことではなくて、 
  正確に楽譜を読み、解釈して、そのとうり演奏しても、どうしても出てくる、例えば、その人の理解の仕方などなのです。

    逆に、声楽家にとって歌とは「自分流」がすべてです。もっとも上質の良い歌い手ならば、役者さんが役になりきって演技するように歌うのだと思います。そのとき、
  音楽の客観性も主観性もなく、主・客一体となった歌が生まれるのだと思います。だから、この場合は、歌はその歌であるとともに、その歌い手そのもでもあるのです。

    器楽奏者の場合どうかというと、実勢で言うと自分流音楽を主張する人が多いように思います。これは、我々の社会、自由主義社会ではどうしても自分自身を主張
  すること以外に人間は生きる術がないという厳かな現実があるからだと思います。でも私は自分よりは音楽の方が大事だなどと言う甘い考えの持ち主です。できれば、
  音楽は、その真実の姿の通り演奏してもらいたいと思います。個人的には、私はピアニストのアルフレッド・ブレンデルというのが好きなのですが、この人は、音楽の
  構造と、それ以上に、音楽の動くものとしての動きを理想的にとらえてくれる音楽家だと思います。

    音楽の真の姿をとらえて、それを演奏すること。私は、それが音楽家の仕事であり、また重い責任を伴った義務でさえあるものと思っています。
  「音楽家が好き勝手に音楽を演奏するので、一般の音楽愛好家は、本当の音楽を一度も聴いたことが無く、知りもしない。」こんなこと、あってはならないことだと思い
  ませんか。余りに極端なことを言って人様に不安な思いをさせるのはいけませんが、これは、ある程度は事実なのだと思います。

    ギターではよくあるのですが、楽譜には何も書かれていないのですが、ギター弾きのみんなが、ある音を変に伸ばしたりします。一般の音楽ファンの人は、3人も4人もの
  ギタリストがそう弾いているのを聴いていると、それがその音楽なのだと思ってしまいますよ。それだけでなく、音楽の専門家でさえ、ギタリストでない人は、楽譜にそう
  書かれているのだと思うことでしょう。「どうしてギター曲にはこんなに変拍子(2・3・4・6拍子以外の拍子)が多いのだろう」などと思いつつ。

    またバッハのシャコンヌを、いったいどれだけの人が 3拍子×4小節 のゆっくりしたリズムの反復として経験したことがあるでしょうか。この私の言葉を聞いただけで
  非常に長くゆったりしたリズムに身をゆだねる、安らぎ、心地よさを皆さんはお感じになるでしょう。そうして、本当のシャコンヌを聴いてみたいと思うでしょう。でもそういう演奏
  に出会ったことはありますか。

    私にはそれが出来ると自慢している訳ではありません。でもやってみようとしました。すごく難しくて、中々、思い描いた理想の通りには出来ませんでした。
  しかし、世界の巨匠たちは、ギタリストでもヴァイオリニストでも、「それが出来ませんでした」なんて言っていいものでしょうか。
    ちなみに、私はギタリストのマヌエル・バルエコのシャコンヌの演奏には、かなり満足しています。でも、他に、そんなことを感じさせる演奏に出会ったことはありません。

ここでも見出しの通りの中身のお話が出来ませんでした。
 ですので再びメインのテーマについて述べる前に、再び(そうして、それが実は、陰のメインテーマです)
  メロディーをメロディーとして弾くこととは
     というテーマについて語ります

  メロディーは水が高きから低きに流るるごとく
       それが、西洋音楽の基本です。と言うより、それはもう西洋思想なのです。というと、こんな比喩的な表現が思想なのかと言うことになってしまいそうですが、実は
     単なる比喩でもないのです。
       「水が流れる」という現象を考えてみてください。そうするとそれは、私たちは、「春先に小川の氷が解けて、雪解けの水が、清らかな音を奏で、そのすぐ川辺には蕗が
     芽をだし・・・」と、文学的な比喩もあるでしょうが、合理的な考え方をする人々(つまり西洋の人たち)は、水と言う物体の動きを解明する、物理的なものの見方に目が向くの
     ではないでしょうか。
       勿論、一般の人(音楽家を含め、物理学者や技術者でない人)が、すべてベルヌーイの定理を始めとする流体力学に思い至るわけではありません。けれども音楽家は、
     音と言う流体を扱う、一種の物理学者ではあるのです。

  音は強きから弱きに流る
       少し、音楽をきちんと勉強した人なら、ドミナントモーションということを知っていることがあると思います。知らない人でも大丈夫です。ここで覚えてください。この感覚は
      年齢に関係ありません。音楽的趣味の洗練の度合いには関係あると思いますが。

      さて、ドミナントモーションとは、それぞれの調子の
            属7の和音  から   主和音へ                   (主和音とか属7とかは、「楽典」の解説書で調べてみてください。)
      進行していく和声進行のことです。

      たとえば、
            ハ長調では  G7 ⇒ C
            イ短調では  E7 ⇒ Am
      のことです。

      これをどう弾くかと言えば、例えばハ長調の例でいえば、G7を少々強めに弾き、決して音が途切れることなくレガートにに流れこむように弾きます。

           G7
(強め) レガートに⇒ C(弱め)  へ


      これが「水が高きから低きに流るるごとく」という感覚なのですが。G7とCの和音を、色々な強さで弾いて試してみてください。
      なかなか、この感覚は、文章では伝わりにくいので、是非ともレッスンを受けに来て下さいね。ただし、あらかじめこういう感覚を身に付けた人が来て下さることは
      大変に嬉しいことなので、下の表などで一度、ご自身で経験してみても下さい。

      それにしても、「支配的な」というようなドミナントを、日本語訳すると属和音というのは、余りいい訳語ではないのかも知れません。属和音は音楽の流れを作るに
      当たっては支配的な役割を果たすのでドミナントと言うのでしょうか。音楽は属和音から主和音へ流れる。風が高気圧から低気圧に流れるように。
      ただし、ドミナントが高気圧のように、高揚した気分なのはいいのですが、主和音は別に不機嫌な和音という訳ではありません。主和音は、あくまでもその調子の
      中心にある響きです。そうして、そこに来ると落ち着けるので、みんながそこに集まってくるような和音です。早い話が、大概の音楽は、主和音で終わるのですが、
      そうでないと、どうしても座りが悪くて終わった感じがしないからです。

      また、属和音⇒主和音 なんていう流れを横に見て、そんな和音のせめぎ合いには、無関心に別世界で鳴っているのが、下属和音です。だから、この和音は、
      しがらみを離れた 解放感 をもたらすのが特徴です。

      そんな特徴をとらえて   属和音=強和音、  主和音=(なか)和音、  下属和音=他所(よそ)和音   などと、戯れに言ってみました。

      一応、すべての調子の  ドミナント ⇒ トニック進行の一覧表を書いてみます。この表にあるコードを実際に音で確かめたい人は(是非そうしてほしいのですが)
     「オリジナル教材」のページにあるコードダイアグラムを参考にしてください。
   長  調      短  調 
  属    主       属   主      属    主       属   主 
ハ長調  G7  ⇒   嬰へ長調 C#7  ⇒ F#    イ短調 E7  ⇒ Am    変ホ短調  B♭7  ⇒ E♭m 
ト長調  D7     変ニ長調 A♭7   D♭   ホ短調  B7   Em    変ロ短調  F7   B♭m
ニ長調  A7  ⇒   変イ長調 E♭7  ⇒ A♭   ロ短調  F#7  ⇒  Bm   へ短調  C7  ⇒  Fm
イ長調  E7  ⇒   変ホ長調 B♭7  ⇒ E♭   嬰へ短調  C#7  ⇒  F#m   ハ短調  G7  ⇒ Cm
ホ長調  B7   ⇒   変ロ長調 F7  ⇒ B♭   嬰ハ短調  G#7  ⇒  C#m   ト短調  D7  ⇒ Gm
ロ長調  F#7      ヘ長調 C7    F   嬰ト短調  D#7    G#m   ニ短調  A7   Dm

       ドミナントモーションというのは、こればかりではなく、まだあります。ただし、これほど強い働きのあるものでも無いし、使い方にもよほど注意が必要です。
       自分で、作曲などするときは、本当に作曲の勉強をよくしてからにしてください。ただし、演奏家はある程度理解し、それが感じられるようになれば
       良いのです。

       他のドミナントモーション まだまだ、限りなく色々な進行法があると思いますが、ざっと考えてこんなものです。「オリジナル教材」「コードダイアグラム」参照
G7        ハ長調の主和音 A7 D B7 C#7 E♭7 F7  
Cm ハ短調の主和音 Dm
C7 単なる5°下降進行
この場合C7は他の和音に対して
ドミナント機能を持っています。
C7の次に来る和音に対してG7は
ドッペルドミナントといいます。
D7
Em ハ長調の主和音の代理和音 F#m
Am ハ長調の主和音の代理和音
(偽終止)
Bm
F# 半音下降のドミナントモーション G#
F#m 半音下降のドミナントモーション G#m
F#7 半音下降のドミナントモーション G#7
D7  G   E7   F#7   A♭7   B♭7   C7  
 Gm            
 G7            
 Gm 表は未完成ですが徐々に作ります        
 Bm でも、楽典の勉強になりますから        
 C#  私よりも早く、ご自分で作っては        
 C#m  いかがですか        
 C#7            

 また、属7の和音の代わりに、属9の和音を使えるのは勿論ですが、根音を長3度上げた形の半減7の和音、更に減7の和音なども、特別なことではなく、普通に使っている
 ドミナント和音です。G7 ≒ G9,  m7-5, Bdim

  テンション―リゾルヴ(緊張とその解決)
     ドミナントモーションよりはもっと広い概念、テンション―リゾルヴの方法の中に位置づけられます。
     不協和音などというと、一般の方は
       「ああ、あの現代音楽で、鳴っている、耳障りで、苦痛だけを感じさせる響きのことか」と思われることと思います。私にしてみれば、ヘビメタだけでなく今日、
     最も流行している、ポピュラー音楽や、人気者の歌手の奇妙にノイジーな声などの多くは、大変耳障りで、苦痛ばかり感じさせられ、なぜ現代の真面目な芸術音楽だけ
     嫌われるのだろうか、こんなに、刺激的な音に慣れた現代人がと、少々違和感を感じています。

      ところで、不協和音、正確には不協和音程は、古典時代から普通に使われてきたのです。それどころか、和声学の中では、不協和音程というのは無くてはならない
    重要な役割を担って来ました。こんなことは、少し和声学をかじった人なら誰でもよく知っていることです。だから、この文章をここまで読み進めてきてくださった方の
    3人に1人くらいの人はもうご存じなので、説明がしつこくなって申し訳ありません。

    それで、ドミナントモーションの働きの主な作用因を、取り上げると、4つの要素があります

       G7(ソシレファ)  C(ドミソ)

       1.根音の5度下降 (ソ   ⇒   ド) : 問いかけと、返事のような関係。「元気?」ー「お蔭様で」のような受け答えの声のトーン。
                                   音響的な説明が何かあったと思いますが、よく覚えていません。
       2.導音関係     (シ   ⇒   ド) : 主音(ド)に、半音という最も狭い音程で接近した導音(シ)は、主音の方に「引っ張られて」というよりは「押されて」
                                   流れ込んでいく。
       3.下降導音     (ファ  ⇒   ミ) : 同じく、主和音のミにごく近いファは、ミの方に流れていく。
       4.3全音の解決   (シファ ⇒  ドミ) : 3全音という不協和音は、安定を求めて協和音程ドミ(長3度)の方に流れていく。

          これらは、和音の働きとして、音楽の流れを作りはするのですが、実際には、演奏者がそのように意識して和音の流れを作ってやらなければ、うまく音楽は
          流れないものです。そこに、演奏家の仕事の存在意義の何パーセントかはあるのです。

     さて、第4項に3全音という不協和音の働きについて述べましたが、音楽の古典時代から、そのような不協和音は積極的に使われてきました。どれだけ重宝がられて
    に使われて来たかと言うと、それぞれの不協和音(非和声音)の働きに応じて、一つ一つ名前を付けて呼ばれていたほどです。

      逆に言うと、古典時代では、不協和音と言うのは必ず、何かの意味、つまり音楽の中での、何らかの作用をもたらすもの、として使われてきました。つまり、刺激的で
    不協和な響きそれ自体が目的ではなくて、その刺激が、音楽先をへ先へと推進させる力、と考えられてきたのでした。「でした」なんて過去形で言っていますが、別に過去
    のことではなく私たち音楽家にとっては、日常、色々お世話になっている道具とか、机を並べて一緒に、色んな仕事をしてくれる専門職の人のようなものです。

      音楽理論などというものがあります。狭い意味での音楽理論(たぶん、和声学のような)と言うのは、音楽の中で作用する「力」を扱う理論と言ってもいいと思います。
    物理学における力学のような基礎理論と言っていいと思います。ドミナントモーションは「力の3法則」ではなくて「万有引力の法則」のようなものでしょうから、その理論は
    物理学ほど立派な体系ではありませんが。

      作曲家や、他の専門音楽家はすべて、修業時代にこういう理論と、その実習を嫌と言うほど身に付け、音楽が自然に流れていくように作曲したり、演奏したりする
    能力を、当然身に付けていなければならないのです。

      で、その専門職名には、倚音、繋留音、先取音、経過音、刺繍音、保続音など色々ありますが、ここでの話で重要なのは、前の3つです。


    (書きかけ)(以下も、書きかけの項目で、これから書くためのメモです)

     ウィキペディアで「シンコペーション」という項目を見ましたが、説明しにくいことをうまく説明するものですね。

  この機能感覚をメロディーにも拡大すること

    ここで、テンション―リゾルヴの感覚をつかんだ方は、この感覚は音楽のあらゆる局面で有用だということに気が付かれるものと思います。それを、使えばメロディー
    は、たちまち滑らかな流れとなって流れていくことでしょう。勿論、音楽には色々な表現があるので、メロディーは流麗なばかりではありません。
      「ごつごつした岩肌のような味わい」「とつとつとして朴訥な人の語り口」・・・そんな表現も必要になることでしょう。でも「流麗なメロディー」のやり方を知っている
    人には、そんなこと(流麗でないこと)は造作もなく出来るのです。

    機能的な働きを持つメロディー

    機能的なメロディーの要素T

      最も有名な例は、「導音ー主音関係」 がそれですが、これは元々、先に触れたドミナントモーションそのものの構成要素の中で、最重要な関係項です。
      導音というのは、長調の音階「ドレミファソラシド」の中で、「シ」の音のことを言います。因みに音階の音一つ一つには、その音階の中での機能を表す、学問的
      な名前が付けられています。

         ド   レ   ミ   ファ  ソ   ラ   シ
        主音 上主音 中音 下属音 属音 上中音 導音

      長調の音階では、ご存じの通り、ミーファ 、 シード の間だけ半音で、その他の隣り合った音はすべて全音です。

(書きかけ)

    更に、この感覚をリズムに拡張した場合について書いたのが、本ページ中にある「リズムの基本」という項目です。

    恐らく、私たちは、この感覚を音楽の大規模な全体構造にまで拡大する必要があるものと思います。そのことに生涯をささげたのが、100年前の音楽理論家の
    ハインリッヒ・シェンカーだと思います。しかし、これは私には、演奏者として、どのように実践したらいいのか、まだまだその領域までは手の届かない状況にあります。

  色々な例題
    「強弱をつけて歌う」ということは、表情付けの為ばかりにあるのでもない。メロディーが成り立つ基本条件。
    音が流れて行こうとするのに、その先の音を強く弾いたりしたら、音は跳ね返されてしまい、立ち往生してしまいますよ。


ギターでメロディーを弾く難しさについて
  もう、楽譜を読んで、どれがメロディーで、どれがメロディーでないかを見極めることの困難については語りたくない。
  音が持続しないのでメロディーが、ゲシュタルト化され難い。


ギタリストがメロディーをつなげるためのいくつかのコツ

  (書きかけです)